春日神社の歴史
◆春日神社
島内には独立した春日神社は五社を数えるだけである。
その所在地は、相川下戸、沢根川内、赤泊三川、松ヶ崎、加茂歌代で、うち沢根川内は春日若宮社、松ヶ崎は松前神社と呼ばれている。いずれも祭神が天皃屋根命という事で共通している。外海府の関にもこの祭神を祀る社があるが社名は二宮神社である。
相川下戸村の春日神社は、慶長十年(1605年)に勧請したときは姫大神と称していた。同十二年八月に、京都の神祇官領長上卜部朝臣吉田兼治が下向した際、武甕槌命、斎主命、天津天皃屋根命を勧請して、春日大明神と称した。姫大神宮は鹿伏村の春日崎にあったが、新社になったあとの元和五年(1619年)に下戸へ遷った。
京都から吉田兼治が下向して大山祇神社を勧請したのは、その二十日前の七月二十二日であるから、春日社も佐渡奉行大久保長安の意向が加わったことで創建されたであろうことは、その後の祭典(四月五日)・造成費が大山社同様に一切を官費でまかなわれたことから疑いない。とくに春日社は、松ヶ崎とともに長安の信仰厚く、能楽の奉納舞台が設けられ、演能の習慣は後代まで続いており、能楽師でもあった長安の影が色濃く残っている。
◆春日神社事能
相川下戸村にある春日神社の能をいう。
相川鹿伏村の春日崎に同社が建つのは慶長十年(1605年)だが、元和五年(1619年)には現在の下戸村に移され、四月五日の祭礼には神楽が奉納されていた。
社前で能が奉納されるのは正保二年(1645年)からで、「春日神社能楽の沿革」によれば、舞台は下戸村の甲賀六左衛門の寄進。「境内北側にあって東に向かい、橋掛り、鏡ノ間などすべて本式に作られた」とある。
佐渡での能舞台建立の最初に記事だが出典はわかっていない。甲賀氏はおそらく有力豪商の一人であろう。その名残で甲賀姓の者が相川に残っている。四月五日の祭礼に奉納された春日神社の能については、正保三年から『佐渡風土記』に連年にわたって番組および役者名が詳しく記載されている。同年の記事に「四月五日春日神事能始ル」とあって、翁(三番叟)、志賀(兵之丞)、清経(権太郎)、井筒(権右衛門)、葵上(次郎左衛門)、班女(権右衛門)、項羽(権太郎)、祝言・高砂とある。また、「四月一七日、大山祇神事能」とあって、番組も記されているが、大山祇社の能はこの年以降は掲載がない。
春日能は、幕末まで休みなく続いたわけではなく、「寛保一三年、本間右近が再興」「寛延元年、安部奉行のすすめで春日・大山祇社能楽再興」などとした記事がある。明治以降の春日社祭禮は「官祭」を停められ、能も自然に衰退し、大正六年(1917年)には能舞台再建のための協賛会設立などの動きも報じられた。
春日演能については、石井文海の『天保年間相川十二ヶ月』に描写があり、この島の十七世紀半ばの能楽資料として貴重である。